静岡水わさびの産地

静岡市

日本の心象風景

わさび栽培発祥の地とされる静岡市の有東木地区は、市内を流れる一級河川・安倍川の上流部にある山里だ。1,500m級の山並みに囲まれた70戸ほどの集落は、静岡のチベットと呼ばれることもあるが、急な斜面に茶畑とわさび田がモザイク模様のように広がるランドスケープは、古くから伝わる静岡の心象風景そのものだ。主要道路から3km以上も山奥へ入ったエリアにあるため、訪れるとタイムスリップしたような感覚にも包まれる。

粗粒玄武岩の貯水槽

有東木のわさび田は、集落を流れる渓流に沿って階段状に並ぶ。最上部は標高約1,000m地点にあり、そこから標高500mあたりまで無数の「畳石式」わさび田が折り重なるように続く。このエリアの山々は、フォッサマグナ西端に位置する「糸魚川静岡構造線」の運動によって隆起したもので、地表部に亀裂が多く、岩盤を構成する粗粒玄武岩が貯水槽の役割を果たしている。そのため多量な降水を涵養し、わさびの生育に最適な環境を生み出している。

ノウハウの蓄積

現在、有東木のわさび農家は約30戸。その中で、約400年前から17代にわたって栽培を受け継いできた白鳥義彦さんに話を聞いた。「有東木のわさびの特徴は、鼻へ突き抜けるシャープな辛味と、その後に広がるふくよかな甘み。それを生み出しているのは、有東木の水です。年間の水温が栽培に最も適した約13℃と安定していて、栄養分も豊富です。ただ、わさび田は、標高や場所がちょっと変わるだけで、わさびの生育に大きく影響するため、先人たちは品種の選定や栽培方法に工夫をこらしてきました。その長年にわたるノウハウの蓄積もまた、有東木のわさびを支えてきたと思います」。


白鳥義彦さん

1坪あたり75本

白鳥さんは、標高500〜1,000mのエリアに90アールの栽培地を持つ。有東木では最大規模のわさび農園だが、最上部の斜度は約45度もあり、わさび田の奥行きも1〜1.5mしかない。急峻な斜面での作業は、まさに命がけだ。栽培は通年行われ、標高や場所に応じて「青系」に属す3〜4種類の品種を使い分けているが、生産量は限られる。「戦後、畳石式になって、収量が増え安定するようになりましたが、それでも、わさびは、1坪あたり75本程度しかとれません。有東木は、これ以上栽培地を増やせないので、収量も増えません。近年、当地のわさびは世界的に注目されていますが、ニーズはあっても十分に対応できないのが実情なのです。ただ、その希少性ゆえに評価がより高まっている側面はあると思います」と白鳥さんは語る。

発祥の地に根付くプライド

400年以上も前から脈々と受け継がれてきた静岡市のわさび栽培。急峻な山間地ゆえに収量は限られるが、だからこそ農家は、わさび1本1本に情熱を注ぎ、その品質に強いこだわりを持ってきた。「今のところ担い手不足の心配はありません。有東木全体でも若い農家が育ち、私の農園も娘が引き継ぐ予定です。もちろん、伝統を守っていくには、厳しいこともたくさんありますが、わさび栽培発祥の地の歴史を絶やすわけにはいきません」と白鳥さん。その表情には、世界一のわさびを育てているというプライドが光って見える。